運河の歴史

運河の歴史欄は加筆継続をおこなって参ります。

工楽松右衛門物語

みなと町高砂・運河物語 最終回(令和5年神無月)

明治の代に入り、明治7(1874)年9月には痛風・老体を理由に「高砂河港普請掛」を辞退したい旨を兵庫県権令に申し出ています。これ以降、工楽家文書には河港普請に関する書類は残されていません。

明治21(18888)年11月に山陽鉄道(現在のJR線)が開通しましたが、東西の路線でしたの南北の輸送は依然として加古川舟運に頼っていました。川は常に上流から土砂を流し込んでくるので、高砂川の土砂浚えを町費で引き続き行っていましたが、工楽家は関わっていなかったようです。

高砂港の浚渫については、帆別銭(ほべつせん)という通行税を取って費用に充てていましたが、高砂港内すべてを浚渫するわけにはいかず、抜本的な港の改修は昭和の初めまで待たなければなりませんでした。

工楽家は幕末には、新田経営から商家経営に力を入れるようになり、砂糖・油粕・糠・材木などの売買で安定した経営を行いました。また、次第に高砂町政に関わり、工楽家の位置づけが高まっていきました。明治元(1868)年には、高砂町の大年寄役を明治3年まで務めました。明治9(1876)年8月に兵庫県が成立し、同12(1879)年に加古郡が発足されると、高砂町の町会議員になりました。

3代目が特に力を入れたことが、初代松右衛門の顕彰でした。加古郡が発足した翌年の明治13(1880)年に明治天皇が神戸に行幸された際、太政大臣三条実美(さねとみ)から松右衛門の発明と諸港の修築を理由に25円が下賜されています。これに合わせて、3代目は初代の履歴をまとめました。

明治30年代には砂糖・菓子・製函(せいかん)・石油を扱うようになり、これらの家業は後の工楽商店へと継承されました。

明治14(1881)年、10月25日 第3代工楽松右衛門は享年68歳でその人生を閉じています。

工楽子孫が残した工楽松右衛門旧宅は、平成28(2016)年1月に工楽家より高砂市に寄贈がありました。経年により破損が進んでいましたが、可能な限り当初の建築様式に復元しながら1年4ヶ月をかけて修理工事を実施し、平成30年3月に竣工しました。今や高砂市内の歴史観光資源として、高砂神社、十輪寺と併せ、有名になっています。江戸時代、多くの商人たちでにぎわっていた工楽旧宅は今、その使命を観光名所に代えて、賑わい続けています。これで長い工楽3代にわたる物語を終わります。

次回からは高砂町ゆかりの人物(偉人)39人を順次取り上げます。

 図版1 高砂湊の西側に新湛保を築造する3代目の願書

図版2 3代目に北海道産物会所御用達を申し渡した文書(工楽家文書)

図版3工楽商店用箋の一部分 

みなと町高砂・運河物語#23(令和5年長月)

2代目工楽松右衛門は、嘉永3(1850)年4月9日、67歳で亡くなります。7月工楽長三郎は姫路藩より3代目工楽松右衛門を仰せつけられます。初代祖父、2代目父の功で二人扶持(ぶち)及び川掛り奉行支配として名字帯刀を許されます。

3代目工楽は文化11(1814)年に高砂で生まれ、父の築いた宮本新田の経営にかかわるのは、天保元(1830)年の頃からで、彼が17歳ぐらいの時です。宮本新田は低地に築かれているため、洪水が起これば堤が破損して浸水し、修築の度に新田経営を圧迫しました。天保年間には経営が苦しい工楽家でしたが、貸付業を行うようになり、次第に経営は安定していったようです。新田経営以外にも高砂町の大年寄りの了解を得て、糠の仲買業を営んでいました。

3代目もまた優れた港湾技術者でした。長三郎が最初に関わった普請は嘉永元(1848)年の高砂湊の修築が最初です。工期の前半では高砂川の川ざらえをし、後半で湊を修築しました。そして、初代が築いた波戸道の突端の西側に新しい波戸を築きました。

工期の後半で行われた湊の修築と新波戸道の築造は、入札で行われました。入札の結果、札26通のうち、21通が2代目工楽松右衛門、4通が息子の長三郎(3代目工楽)、1通が岸本善右衛門でした。2代目工楽が高砂川口普請棟梁に任命されました。工事自体は3代目工楽が父の指示のもとに大きく動いたと考えられています。

この時、川方掛(かわかたがか)りの代表は、姫路藩町方御役所にこう願い出ています。「普請はあまり大事業になっては費用が不足するが、中だるみになってもよくない。棟梁には予算の中で川方掛りと相談しながら工事を進めるように命じてほしい」と。町の人々は費用がかさむことを心配していました。これは初代工楽に熱烈なラブコールをして高砂川とその周辺の港湾工事をした時に、予算を遥かに超える出費があり、それに懲りたといえるものでした。

3代目工楽は、文久3(1863)年に湊と高砂川口の大ざらえを完了させ、翌年の元治元(1864)年に新湊の普請にかかります。

詳しいことは避けますが、その工事予算は銀6百貫目でした。その資金自体も藩に願い出たり、高砂町内で、5年限りで銀を割りつけたりして、かき集めましたが、それでも不足が生じました。高砂に年貢米を出している加古川上流の領主に助成を依頼しました。結局、費用は幕末の混乱もあり、物価が高騰し、当初の見積もりを大幅に上回る銀2千貫目にも及びました。資金調達のために高砂では頼母子講(たのもしこう)を結び、他所からも借り受けて対応に追われました。

明治7(1874)年9月、3代目工楽は持病と老齢を理由に川方の仕事を辞退し、港湾の仕事から離れていきました。*次号は3代目工楽のその他の業績とその後の工楽家を綴っていきたいと思います。

図版1 工楽家三代の業績

図版2 向島石祠(本来は高砂川の対岸にあった)

図版3 夏休み工楽松右衛門かるた大会(2023.8.12高砂市総合体育館格技場)

みなと町高砂・運河物語#22(令和5年葉月)

文政5(1822)年8月、2代目工楽松右衛門名義の手船・万歳丸が伊豆沖で破船し、2代目は、11月に江戸に向かい、破船後の処理を行うのですが、幕府側の米の俵数と、乗船米の俵数が異なり、12月まで江戸に留め置かれることになります。その後、廻船関係からは手を引くことになります。

さて、遡るのですが、文化14(1817)年4月2代目は高砂沖から荒井沖までと高砂町内の古い新田を整備すべく、埋め立ての見積もりをしています。ところが見積もりをしたものの、初めは新田開発の工事をためらっていました。町内の「身柄宜敷者三軒(みがらよろしきものさんけん)」が工事をしたらよいと、町内の有力者に開発を勧めるのですが、その者たちが現地視察をし、風波が強いこと理由に開発することも、協力することも断りました。2代目も断りました。姫路藩が河合隼之介の命を受け、2代目一人で開発するように命じたのですが、それでも「一人では力不足」と断り続けました。

結局藩に「関東(江戸幕府)からの命令である」と押し切られるかたちで、開発を始めました。「御新開御普請(ごしんかいごふしん)」は文政2(1819)年8月ごろより始められました。南側の沖に堤を作り、東の初代築の波戸道に沿って「川堤」を築くことで、海や川と遮断することに成功しています。そこに私は2代目の優れた技術を感じますし、「宜敷者」の方々にはこの工事は不可能としか思えなかったと思います。断る理由を「風波が強い」と言ったのではないでしょうか。

堤内の洲を埋め立てるために塩水を抜く必要があり、これには周囲にいくつかの溝を張り巡らせています。こうして文政8(1825)年に新開地の検地があり、このときに「宮本新田」と認められました。面積0.42k㎡です。

2代目工楽松右衛門の高砂での仕事は、初代の築いた堤や高砂湊などの保守に努めたこと。宮本新田を築いたことでした。嘉永3(1850)年4月9日、数え67歳で亡くなります。その時には3代目が37歳です。立派な後継者として育っていました。その長三郎がその年の7月3代目工楽松右衛門を幕府より仰せつけられ、祖父、父の功で二人扶持及び名字帯刀を賜りました。

2代目は天保14(1843)年閏9月 高砂神社境内整備。相生の松の手入れ、神楽所の屋根の吹き替え(~弘化2(1845))をし、弘化3(1846)年5月十輪寺境内の整備の采配をする(~嘉永元年(1848)年)秋、宮本新田、大風にて大破損する。

2代目もそれが新田開発まで及ぶにしても優れた港湾技術者であったことは間違いありません。初代が見込んで養子にしただけのことはあると思います。本当は2代目の写真か肖像画があれば、嬉しいと思い、探したのですが見つかりませんでした*次回は工楽3代目に入ります。

図版1 新田築造図(イラスト)

図版2 宮本新田位置図

図版3 工楽3代高砂貢献図

図版4 現在の宮本新田跡地【右海側】(㈱現カネカ高砂工業所)

みなと町高砂・運河物語#21(令和5年文月)

文政5(1822)年8月、2代目工楽松右衛門名義の手船・万歳丸が伊豆沖で破船し、2代目は、11月に江戸に向かい、破船後の処理を行うのですが、幕府側の米の俵数と、乗船米の俵数が異なり、12月まで江戸に留め置かれることになります。

みなと町高砂・運河物語#20(令和5年水無月)

2代目工楽松右衛門について、書き始めます。初代が高砂町東宮町の宮本屋長三郎・カチ夫妻に養子でいったときは12歳でした。宮本屋には徳兵衛をはじめ、男の兄弟(松蔵・松五郎・甚五郎)もいました。後に兵庫津に出て、初代御影屋松右衛門店を支えるメンバーになります。そして初代が長年やっていた廻船関係「諸荷廻漕」を支えました。初代には子供もがいませんでした。そこでどうしたのかということですが、徳兵衛の実子、つまり、初代からいえば甥っ子に、しかも宮本屋の跡取り息子になります。

祖父の事業の跡取りが徳兵衛だったと私は考えているのですが、初代を支える側に回り、兵庫津に出ます。そして、2代目(本名;長兵衛)も兵庫津にということになります。「え、では高砂の宮本屋の後継者は?」となるのですが、今のところは分かりません。初代は晩年高砂に帰って、自分の菩提寺も高砂十輪寺に変更しています。初代(義父)の動きと併せて2代目の動きを見ていると優れた人物であったことが伺えます。

作家の玉岡かおるさんは、ここのところで初代の息子というので、周りが気を遣うことを考えて、厳しく躾をした。時には殴ることもあったと書かれますが、家の盛衰は後継者によって決まるので、初代は甘やかさずに育てたことは間違いありません。

2代松右衛門は天明4(1784)生まれ。その時初代は40歳を過ぎていました。2代目は初代ことを「養父」と称しており、享和期の初めの頃(1801)年頃蝦夷地のエトロフ島での港普請の頃から初代を補佐する立場にあったのではないでしょうか。2代目は存在感を増してくるのは、江戸時代後期の文化年間(1804~17)の頃です。初代は60歳を過ぎ、病気がちだったので、2代が初代の仕事を引き受けています。文化5(1808)年から文化7年まで行われた、高砂での一連の大工事に関わっていたことが推定されます。その間に九州小倉藩より要請された朝鮮通信使をもてなすための船の築造や、初代最後の仕事になった鞆の浦の長堤の工事などにも、2代目が活躍したと考えています。「工楽家文書」には港湾普請部門で宮本屋長兵衛を支えていた水京屋卯兵衛や岡本屋清兵衛の名前が鞆の浦築造に当たって出てきます。

文化9(1812)年8月21日、初代が逝去し、宮本屋長兵衛が二代目工楽松右衛門の名を継ぐために幕府に至急の届けを出し認可されます。初代の墓所は2代目の名前で建立しています。初代同様、姫路藩に召し抱えられ、御水主並(おかこなみ)金5両と二人扶持(ににんぶち)を与えらました。2代は金毘羅社金堂築造のための木材を庄内(山形県)から運ぶ仕事をしており、川浚えの仕事はしていなかったようです。しかし、文化12(1815)年に洪水が起き、初代が築いた土砂除堤(どしゃよけつつみ)が破壊されてしまいました。2代は町衆に修繕したいと申し出たのですが、聞き入れてもらえず、その後2年間放置されていました。その間に北側に洲が2箇所と大洲ができてしまいました。

見かねた2代は砂防堰堤「土砂留亀甲(どしゃどめきっこう)」を作り、それにより付近の洲は水の流れで無くなり、できてしまった洲も小規模で済んだのです。

現代で船を扱わない時代にあっても加古川は土砂がたまるので、洪水を避けるために大型浚渫船が稼働しています。

次回にしますが、文政5(1822)年8月、2代名義の手船・万歳丸が伊豆沖で破船し、2代目は、11月に江戸に向かい、破船後の処理を行うのですが、幕府米の表数が、乗船米と異なり、12月まで江戸に留め置かれることになります。

図版1 金毘羅社金堂

図版2 波戸道(右側 初代工楽築造)高砂大橋より

図版3 東風請波戸・一文字波戸(初代工楽築造)

図版4 波戸道の先端は貯蔵タンクまで(その奥が宮本新田・2代目工楽開拓)

みなと町高砂・運河物語#19(令和5年皐月)

私がこの運河物語では、工楽松右衛門のことを書かざるを得ないと思って書きだしたのですが、ここまで書き綴るとは私自身も思いませんでした。

私とこの物語の主人公・工楽松右衛門と出会いは、第二の故郷・高砂であったことは、確かですが、知れば知るほど、自分の利益を考えず「世のために」生き切った工楽松右衛門を何とか知ってほしいという思いにかられました。書いているうちに更にその思いが高まってきました。

松右衛門の人柄・人物を描写するものは、ごくごく限られています。というより工楽松右衛門と同時代の江戸時代の農学者である大蔵永常(おおくらながつね)が書き残した『農業便利論』以外は、ごくわずかしか見られません。

「松右衛門帆」を発明し、スピード輸送、大量輸送を可能にし、港の出入りに当たり、不便なところ、改善すべきところに気が付き、「日本一の港改修王」と言われるまでに成長していきました。その名声は日本国中に鳴り響いていました。晩年の最後の最後まで、工事依頼が絶えませんでした。なぜ、そこまでに工事依頼が来るようになったのでしょうか。

松右衛門のやったことは、どれをとっても誰もがなし得なかった素晴らしい仕事ですが、これらの一切の技術をマル秘にせず、「世のために」全て公開したことです。何をするにしても損得抜きで、「世のために」の精神で取り組みました。そのために松右衛門は慕われ、アドバイスを求める人々で松右衛門の周りはにぎわいました。その業績は農業界の英雄・二宮尊徳に匹敵し、海運界の英雄・工楽松右衛門となったのです。

松右衛門は良いことをしても、それが当たり前でしたから、自分の名前を広めることをしませんでした。神社や寺院に寄付しても、それが当たり前でしたから、名前を書きませんでした。松右衛門の技術を持ってしかできない、また、その助けがなければお店がつぶれるような大助けをしても、一切お礼を受け取りませんでした。受け取っていれば記録として残ったのですが・・・。それどころではなく、自分を表に出さず、後輩の高田屋嘉兵衛などを立てました。だから無名なのです。しかし、同時代人には高い尊敬を受けていました。

工楽松右衛門の人生を通して見ると、苦難な時が、後から見ると彼の人生の成功にいたっていることをしみじみ感じました。順風満帆の時よりも、苦難の時は大変でも成功の原因を作っています。工楽松右衛門の特徴は大変な時も「クサル」ことをしなかったことです。大変な時も常に前を向いています。成功とは苦難に遭わなかったことではないのです。苦難に遭って「クサル」ことをせず、努力し続けていることです。そのことを工楽松右衛門の人生をみてきて感じさせられました。

養子にだされた時、事情があり高砂におられなくなった時、一時期に多くの親族を亡くした時、妻二人に相次ぎ先立たれた時、松右衛門は悲嘆の心を持ったはずです。それにもかかわらず、彼の動きが停まった様子はないのです。また、松右衛門には子どもがいませんでした。そのことが優れた養子つまり二代目工楽松右衛門を迎えることにつながりました。

また、「世のために」との工楽の彼の強い信念は、兵庫津に出てから確固たるものになりました。兵庫津の豪商・北風家の考え方「荷主、船頭、水主働き(船乗)など、身分を問わず船に乗る者を大切にせよ」を参考にしたにしても、同じくお世話になった高田屋嘉兵衛にはそれが見られません。やはり工楽松右衛門の素晴らしい個性といってもいいのではないでしょうか。

「積善(せきぜん)の家に余慶(よけい)あり」(中国の古典『易経(えききょう)』)という言葉があります。「善いことを積み重ねていく家には子々孫々まで幸福がおよぶ」という意味ですが、初代工楽松右衛門の生き方が、現在六代目のご子孫の方がいらっしゃいますが、その代にまで「余慶」としてつながっているのではないでしょうか。

次回は二代目の工楽松右衛門について、触れていきたいと思います。

図版1 工楽松右衛門旧宅

図版2 工楽松右衛門旧宅の賑わい

図版3 帆船みらいへ 兵庫津~高砂港~室津港航海(2022.11.11~14日)

図版4 帆船みらいへ歓迎式典(高砂港にて)

図版5 現在の高砂町(緑地が高砂神社)

みなと町高砂・運河物語#18(令和5年卯月)

福山藩の鞆の浦工事、小倉藩の相生丸建造、その他、各地から「工楽松右衛門さんアドバイスを、工事をお願いします」との要望が多く寄せられましたが、あまりにも煩雑になるので、16号では前の2つだけにし、後は書くことを避けました。

 工楽松右衛門の最期

晩年のこの様子を松右衛門は自分も満足したと思いますが、亡くなった実父母、養父母、奉公先の鍛冶屋の親父さん、兄弟衆、北風の旦那さんにお応えできた満足の方が大きかったと思います。ただし、相撲取りに匹敵する体格の松右衛門にも、老いの足音が迫ってきていました。この運河物語で取り上げた一連の工事が終わったのが文化8年です。松右衛門が亡くなったのは文化9(1812)年です。

この年の8月10日のことです。松右衛門は外出中ににわかに体調を崩します。

「生洲(いけす)において発病」と『工楽家文書』にありますので、瀬戸内海や播磨灘から揚がってくる魚を扱う魚市場が集まるのが高砂町魚町です。そこで軽い脳梗塞のような症状があり、手当てをして快方に向かうように思われたのですが、手指にしびれが現れ、近所の医師が手当てをしました。更に症状が悪化し、印南(いんなみ)郡稲屋村(現加古川市加古川町)の名医に診てもらいましたが、その治療の甲斐なく8月22日夜10時ごろに危篤になりました。

菩提寺の十輪寺に来てもらい、念仏を唱えてもらう中で、息を引き取りました。工楽松右衛門満69歳、享年70歳です。

甥であり、養子でもあり、優れた松右衛門の弟子であった宮本屋長兵衛が二代目工楽松右衛門の名を継ぐために幕府に至急の届けを出し認可されます。その死は直ちに兵庫津にいる関係の方々、御影屋、鍛冶屋、高田屋、北風家に飛脚で知らされました。

そしてそのお墓は菩提寺である高砂の十輪寺に今も静かに立っています。どこまでも「世のために」その一身を捧げ尽くした工楽松右衛門。そして、江戸末期の海運業を「松右衛門帆」「特殊作業船」「港湾造り」で発展させていった工楽松右衛門。その技術は帆船による海上輸送の時代が明治期に終わりを迎え、新たな陸上輸送の時代に入る中で一部不要のものになったかもしれません。しかし、当時の海運業界を大きく発展させ、盛り上げていった時代の革命児であったことは間違いありません。

その無私の精神、「世のために」一筋の精神は永久に消えることがなく、人の生き方のモデルとして、模範として、忘れられることは無いでしょう。また、そう願っています。時代と共に埋没させてはいけない人物なのです。

その後の工楽家は現在八代まで続き、子孫の方が正当な初代工楽松右衛門の業績を後世に残すために、尊い見直し発見の旅を今もされています。

現在、高砂の工楽家は「工楽松右衛門旧宅」として、高砂市の運営する文化遺産として整備され、公開されています。その保存整理作業中に出てきた文書類は『工楽家文書』としてまとめられ、出版されていますが、年月日不詳の文書が多く、これからも、「発見の旅」になります。

工楽松右衛門さん、あなたの「世のために」一筋の精神は永遠の旅を新たに始めています。

図版1 工楽松右衛門菩提寺・十輪寺

図版2 工楽松右衛門お墓(十輪寺)

図版3 工楽松右衛門墓碑銘(裏)定榮は2代目工楽

図版4 工楽松右衛門像(高砂神社)故郷相生の松に囲まれて

図版5 高砂神社

みなと町高砂・運河物語#17(令和5年弥生)

先日(2月19日)北前船に関する兵庫津フォーラムがあり、ルネサンスみなと町高砂のメンバーも7人参加しました。田辺眞人兵庫津ミュージアム名誉館長の基調講演があり、その後、田辺名誉館長を囲んで、パネルディスカッションがあり、高砂、坂越、兵庫津、淡路、有延銀山関係の代表の話を聞きました。その間に淡路の民族芸能を入れており、堪能しました。民俗芸能で共通に感じたのは念仏のリズムが色濃く漂っていることでした。

さて、晩年の2つの大工事、御召船建造と広島鞆の浦湊改修工事の動きを見ていきたいと思います。「これほどの人物(松右衛門)に依頼ができるのも鞆の浦が繁栄していた証」(日本遺産「福山・鞆の浦」構成文化財)と言わしめるほど、この頃の松右衛門は名声が轟いていました。

ただし、相撲取りに匹敵する体格の工樂松右衛門でしたが、高砂湊竣工時の1811(文化8)年は69歳です。船乗り、船頭として鍛え上げた肉体も随分と衰えが表れていたと推察できます。そのために、高砂湊の工事、鞆の浦湊工事、総監督工樂松右衛門、現場監督2代目工樂だったのではないかと言われています。特に鞆の浦湊の工事に関しては、2代目が大きくかかわり、その2代目を松右衛門の弟子である水京屋卯兵衛や岡本屋善兵衛が支えていました。

松右衛門は釣屋善三郎の息子として生まれ、宮本屋長三郎に養子で入り、その親族が寛延の一揆で打ちこわしに遭い、その不名誉を高砂湊の改修で見事にはらしました。兵庫津の鍛冶屋善兵衛に奉公し、その娘をめとり、御影屋平兵衛にお世話になり、北風荘右衛門貞幹(さだもと)に「世のために」一筋との生き方の多大な影響を受け、北風家よりのれん分けした喜多二平に「松右衛門帆」を織らせ、幕府より「工樂」の姓をいただくほどの大きな貢献をし、高砂湊の改修までたどり着きました。寿命との駆け引き、また体調不良との駆け引きをする毎日でした。工楽松右衛門の享年は70歳です。

高砂湊は松右衛門によって蘇りました。「幕府が不可能」といっていた工事です。その港再生工事以降について2点だけ触れておきたいと思います。

①御召船の建造

1809(文化6)年、松右衛門は備前小倉藩より御召船(朝鮮通信使応接用の船)の建造を依頼されました。松右衛門はその船を相生丸と高砂にちなんで名づけました。その船を兵庫津の船大工を高砂に呼び寄せて、作らせました。当時、兵庫で一番栄えていた兵庫津から高砂までわざわざ船大工が来ることは、松右衛門ならでの人間力の持つ技かなと思います。兵庫津の船大工にとって松右衛門の技術の盗む絶好のチャンスでもあったと思います。建造の材料は当然高砂で主に調達しました。高砂発展のためにも大いに役立ちました。高砂の船大工のレベルアップを図ったとも考えています。そして、高砂でもこれだけの船ができることを天下に証明しました。船が揺れても藩主が乗る所は二十構造になっていて、揺れないように工夫しました。

最後の大工事・鞆の浦改修

晩年のもう一つの大工事は1810(文化7)年~文化8年にかけて完成させた、広島鞆の浦の港改修工事です。改修工事といってもほぼ工楽松右衛門が造ったと言われています。大波戸を見ると頑丈な松右衛門独特の堅固で、美しい大波戸です。高砂に残されている松右衛門作の東風請(こちうけ)波戸と同じ作りです。

「海に関する全てのことは、工楽老人に教えてもらえ」(原文「海事百般、難事出来(しゅったい)すれば、工楽翁の教えを乞うに如かず」)といわれるほどの工楽松右衛門になっていました。

この工事も儀を重んじ利を軽んじる人柄と相まって、鞆の浦の普請は兵庫津の名工工楽松右衛門にお願いするとなりました。

私はそこに「世のために」一筋で人生を極めた松右衛門の輝かしい勝利の歴史ドラマを見るのです。あっぱれと称賛したくなる人生の偉人を見る思いがします。

次回は松右衛門の終焉の場面を見ていきたいと思います。

図版1 現在の高砂堀川

図版2 現在の松右衛門築の波戸道(対岸)

図版3 鞆の浦の港

図版4 鞆の浦;松右衛門築堤

図版5 鞆の浦 五雲亭秀(江戸末期)

みなと町高砂・運河物語#16(令和5年如月)

この原稿を書いている日(1月25日)は大寒波で公共交通機関運転見合わせ、高速道路も進入禁止になり、我が家の車にも5㎝ほど雪が凍り付いていました。昼やむなく車を出したのですが、日陰は路面凍結で車が滑りました。

1月28日(土)には工楽松右衛門カルタ大会を高砂(町)公民館で、2月1日からは巡回パネル展「高砂町ゆかりの人物・29人展」を高砂市役所完成記念として市役所ホールで2週間実施します。今後、10人増やし39人展の準備にかかります。2月19日(日)には兵庫津フォーラムで、11月実施した高砂帆船みらいへ事業の報告があります。

さて、本題に戻ります。松右衛門が高砂と深くかかわるのは1808(文化5)年、66歳の時です。『工楽松右衛門伝』の松田裕之神戸学院大教授の研究で分かったことが多くあり、感謝します。

初代松右衛門が高砂で成し遂げたこと(大げさに聞こえるかもしれませんが、初代工楽以外に誰も手が付けられたなった難事業)は、

①まず、高砂川の上流にある百間蔵(㈱現三菱製紙会社高砂工場)から河口の川口番所(現高砂町南浜町)までの約1㎞の川浚えをしました。

②さらに川の土砂を浚えただけではなく、加古川の下流の所々を「盤礫(いしがき)」で修理し、杭を打ち、堰(せき)を増設しました。

③また、百間蔵の南東部分にある津留(つどめ)番所から東側へ橋を架けました。

④さらに川口番所から南に約1㎞の波戸道を築きました。

今回は④から、書きます。

川口番所は船の出入りの監視場所で、今の市役所機能も持っており、船1隻が隠れるほどの大きな松の木が生えていたところでした。そこから南に既にできていた長い洲の一部を利用し、盛り土をしたあと、石で護岸し、波戸道を作りました。「波戸道」というだけあって、家が立ち並ぶほどの道幅がありました。私の知り合いが、そこに住んでいましたが、古い階段ダンスがあり、浜風をまともに受け、強風の時は、ゴーと音がして家が揺れていたのを思い出します。現在の南材木町です。住宅として1軒だけ今でも家があります。そして波戸道の突端には台場を作り、高燈籠(たかとうろう)を設けて、船の出入りの便を図っていました。現在の灯台です。

波戸道に絡む工事はまだ続きます。そこにもう1つ港を作るために、反対側の岸つまり、現向島公園の先端から「東風請(こちうけ)波戸」「一文字(いちもんじ)波戸」を築きました。これで、高砂堀川に百間蔵前だけでなく、新しい湊ができ、湊機能が格段と上がることになりました。

ただしなのですが、高砂堀川周辺の総合改修工事です。まして難工事です。これでお金のかからないはずはないのです。事前に全てを工楽松右衛門に任せることを証文でかわしていました。当初の見積もりは銀250貫目でしたが、工事当初の文化5年だけで40~50貫目かかっており、今後どのくらいかかるか見当もつかないと姫路藩の大庄屋を震え上がらせるほどでした。結局、総工費は350貫目になり、超過した100貫目は高砂町中全体の負担になりました。 

松右衛門の常として、この工事でも自己の利益を求めなかったことは確信できます。この工事によって高砂の町は不死鳥のように復活したのです。 

この時期に松右衛門はこんな動きをしています。今になってなぜと思ってしまいました。文化8(1811)年、工楽69歳の時に箱館湊を、高田屋嘉兵衛兄弟に170両で、翌年の文化9年70歳の時に同じく箱館ドッグを、105両で高田屋嘉兵衛兄弟に永代譲渡しています。70歳で亡くなった初代工楽松右衛門は身辺整理もあったと思いますし、可愛がった26歳後輩の高田屋嘉兵衛への置き土産もあったとは思います。一説には高砂堀川の改修資金に充てるつもりではなかったのかとの見方もあります。

次回は、晩年のもう一つの大工事、広島鞆の浦の工事と松衛門の動きを見ていきたいと思います。「これほどの人物(松右衛門)に依頼ができるのも鞆の浦が繁栄していた証」(日本遺産「福山・鞆の浦」構成文化財)と言わしめるほど、この頃の松右衛門は全国に轟く名声と、寿命との駆け引き、また体調不良との駆け引きをする毎日でした。私はそこに「世のために」一筋で人生を極めた松右衛門の輝かしい勝利の歴史ドラマを見るのです。あっぱれと称賛したくなる人生の偉人を見る思いがします。

*写真はこれまでと重なるものがあるのですが、説明とリンクしますので、再掲します。図版1 高砂堀川の初代工楽の河口工事

図版2 波戸道の姿

図版3 東風請波戸(上部が向島公園)

図版4 一文字波戸

図版5 晩年の工楽松右衛門絵像

図版6 現在の高砂堀川(上部が瀬戸内海)

みなと町高砂・運河物語#15(令和5年睦月)

昨年(2022年)後半は、かなりの運動量(?)をこなしました。

〇11月10日に巡回パネル展「高砂町ゆかりの人・29人展」(B1パネル大)オープンセレモニーを大型テント2張の中で、ゆかりの子孫の方々や県会、市会、来賓等に来ていただいて実施しました。万灯祭(11月12日・13日)までに新聞に記事が掲載され、万灯祭の盛り上げとパネル展への来場者増を狙いました。2月1日~17日は高砂市役所ホールで駐車場完成記念展示をします。

②同時並行で11月12日~14日、帆船みらいへを使って「日本遺産 北前船寄港地・船主集落」を巡る旅を実施しました。神戸⇔高砂、高砂船上宿泊研修、高砂⇔室津間を走らせました。全て体験学習形式にし、展畳帆・操舵・バウスプリット体験、海洋プラスチック問題学習、地元歴史学習を入れました。どの旅程も申込者が多く、1回だけ波が荒かったのですが、成功に終わりました。

③その取組の間、私が通っている兵庫県いなみ野学園で学園祭(11月19日・20日)があり、実行委員の副をしていましたので、準備が大変でした。また、この時に限って、「工樂松右衛門」に関する講演会が3回あり、1回は『工樂松右衛門伝』の著者松田裕之神戸学院大学教授の講演会、後2回は私が明石の子午線ホールと高砂市松陽学園(高齢者大学)でしました。

さて、本題に戻します。松右衛門が高砂と深くかかわるのは1808(文化5)年、66歳の時です。私は高砂での松右衛門を巡る一連の動きに歴史ドラマを感じます。松田教授の研究でここまで分かったことに感謝します。では、高砂湊で初代松右衛門はどんな工事をしたのか。ここからは高砂市教育員会編『湊とともに』を参考にし、一部藤村流に表現を変えて利用させてもらっています。

 姫路藩名家老・河合道臣(ひろおみ・寸翁(すんのう)の後押しがあり、初代松右衛門は高砂の川浚えの仕事をすることになりました(文化5年冬~文化7年まで)。彼が手がけた築造物を見ると、川の流れに逆らわず、かつ、川の流れを押さえることを念頭において仕事をしたことが分かります。また、現在でもその基礎が残るほど堅固に作っています。

①まず、高砂川の上流にある百間蔵(㈱現三菱製紙会社高砂工場)から河口の川口番所(現高砂町南浜町)までの約1㎞の川浚えをしました。これについて初代松右衛門は「百間蔵迄大船をつけ申すべく」と語った通り、大型の船も百間蔵の近くまで通船できるようにしました。川の東向かいには「東嶋」あるいは「向島」と呼ばれる大きな中洲がありました。これはそのままにしておくことで、中洲側に船を停泊させることができるようになりました。

②さらに川の土砂を浚えただけではなく、加古川の下流の所々を「盤礫(いしがき)」で修理し、杭を打ち、堰(せき)を増設しました。そして、百間蔵の上流の平岸堤(ひらぎしつつみ)の向う岸には剣先土砂除堤(けんさきどしゃよけつつみ)を築きました。これは上流から流れてくる土砂をせき留め、湊へ流さないという役目を果たしています。だだし、剣先土砂除堤は工事を始めた頃に築いたので、川を浚えた土砂で仮工事をしたのにとどまりました。これはのちに大雨で崩れ、処置方法について工樂家と高砂町衆との対立を生む原因となりました。

③また、百間蔵の南東部分にある津留(つどめ)番所から東側へ橋を架けました。東側にある川の2つの中洲にそれぞれ石垣で亀甲堤(きっこうつつみ)を作ることで橋とし、加古川の対岸につなげました。中洲と中洲をつなぐ堤は屈曲しており、まともに水流の影響を受けないような工夫がしてあります。

④さらに川口番所から南に約1㎞の波戸道を築きました。これから先は、次回をご期待ください。今の工事からいってもとんでもないボリュームの工事をこなしています。

新年あけましておめでとうございます。今後も高砂海文化21C及び私が所属しています「ルネサンスみなと町高砂」をよろしくお願いします。

図版1 江戸時代後期の河川流路図

図版2 高砂湊の初代工樂松右衛門修築図

図版3 東風請波戸

図版4 一文字波戸

図版5 初代松右衛門が築いた橋と亀甲堤

図版6 初代松右衛門が築いた橋と亀甲堤(拡大)

みなと町高砂・運河物語#14(令和四年師走)

松右衛門が高砂と深くかかわるのは1808(文化5)年、66歳の時です。

①文化4年(65歳)7月中旬、高砂町東宮町宮本屋長三郎邸(松右衛門の養家)で高砂世話役連が松右衛と釣屋甚右衛門(実家関係?)に土砂堆積による高砂湊の窮状を訴えています。

②8月22日、高砂世話役連が松右衛門の示した普請案に同意することを釣屋甚右衛門に伝えた上で、助力を乞う書状を松右衛門に送っています。

③高砂川方世話役の鍵屋源右衛門、大蔵元の柴屋三郎右衛門、塩屋太一郎等が、姫路藩に高砂川の浚渫普請を願い出ています。

④文化5年(66歳)閏6月24日 姫路藩より浚渫普請願の内諾を得て、高砂大蔵元の柴屋三郎右衛門を筆頭に、鍵屋源右衛門、塩屋太一郎が松右衛門に高砂川河口の浚渫を一任したい旨の書状を送っています。

⑤8月晦日、姫路藩家老河合道臣(寸翁)が高砂川河口を検分。御手普請に準じた浚渫実施(諸運上銀年32貫目を3年間下げ渡し、普請に必要な砂・石の領内調達)を許可しています。

⑥冬季に、松右衛門が浚渫工事に着手する。

(①~⑥は『工楽松右衛門伝』(松田裕之)より一部変更して引用)

私は、この一連の流れに歴史ドラマを見ているように感じています。高砂衆の熱意、河合家老がいなければ、この事態が成立しなかったと思われます。

高砂衆が松右衛門に頼むにあたって、用意周到にことに当たっています。64歳の松右衛門が高齢・健康の理由で断らないように、町方衆が協議の上、背水の陣を引いて臨んだものと思われます。

こうして何らかの事情で15歳の時に、高砂を出奔した松右衛門が、幕府より工楽の姓を賜り、高砂救済のために、大車輪の活躍をすることになるのです。こうして、高砂湊の工事は文化5年冬から始まり、文化7年に終了しました。前号でも書きましたが、姫路藩が「不可能」といっていた工事です。

この工事は莫大な費用が掛かりました。姫路藩が約半額負担することになっていました。当初の見積もりでは銀250貫目でしたが、工事当初の文化5年だけで40貫~50貫目かかっており、今後どのくらいかかるか見当のつかない、と姫路藩の大庄屋を震え上がらせるほどだったといいます。総工費は350貫目となり、超過した100貫目は高砂町中全体の負担になりました。

しかし、これまでの松右衛門を見ていても、それによって儲ける意識は薄かったと思います。いつもの通り、「世のために」「故郷高砂のために」との意識が強かったものと想定されます。また、この工事は松右衛門しか成し遂げられませんでした。

1810(文化7)年8月、初代工楽は姫路藩主酒井から5人扶持(ごにんぶち)と切符金10両が給され、御水主並(おかこなみ)の御廻船船頭として召し抱えられます。

これまでの生活基盤であった兵庫津を離れ、故郷の高砂に住まいを移し、菩提寺も兵庫津永福寺から高砂・横町の十輪寺に移しました。ただし、お店は兵庫津に構えていました。

今回は少し、詳しすぎることになりましたが、次回はどんな工事をしたのかをお届けしたいと思います。

写真1 松右衛門の養家と工楽旧宅

写真2 松右衛門の晩年の絵像

写真3 松右衛門開発工作船図 

写真4 現在の高砂堀川(高砂大橋より)

みなと町高砂・運河物語#13(令和四年霜月)

初代工楽が高砂と深くかかわるのは1808(文化5)年、66歳の時です。運河物語は現在、62歳の初代工樂を語っています。その後、①1806(文化3)年 64歳 豊前・伊田川を砕石工事する。②1807(文化4)年 65歳  6月21日蝦夷地で御雇を終える。③1808(文化5)年 66歳 閏6月24日、高砂の川方世話役柴屋三郎右衛門・塩屋太一郎、鍵屋孫右衛門、高砂川の浚渫について、協力を仰ぎたい旨を申し出る。冬、姫路藩の命により高砂川浚普請と湛保(たんぽ)の築造を行う。

先日(10月28日)工楽松右衛門の研究をされている明石シニアカレッジの方々20名ほどと兵庫津に、マイクロバスを借りて見学に行きました。ところが、兵庫津は神戸空襲でほとんど焼け野原になってしまい、工楽さんに関するものがほとんど残っていませんでした。

そのために、訪ねることができたのは喜多二平が建てた喜多家の菩提寺にあたる八王寺の工楽松右衛門の記念碑だけでした。この碑は「苦樂」と刻まれており、二平のお孫さんが建てました。工楽子孫の隆造さんによると、後の世に本墓争いが無いようにと、わざと名前を「苦樂」に変えたとのことでした。高砂十輪寺にあるお墓と同形ですが、あまりにも小さいので私は驚きましたし、皆さんもそう言われていました。

ところが、初代工楽より26歳年下の高田屋嘉兵衛に関しては司馬遼太郎の影響もあるかと思いますが、高田屋嘉兵衛記念館(まちなか倶楽部)、高田屋嘉兵衛本店の地記念碑(ポケットパーク)、高田屋嘉兵衛顕彰碑(竹尾稲荷神社)などを見学させていただきました。最後は兵庫津ミュージアムを見学して帰ってきました。

兵庫津で会う人が”日本遺産~北前船寄港地・船主集落~”の法被を着ておられました。仲間と楽しみながら兵庫津も盛り上げていこうとのこと、その気持ちが伝ってきました。

さて、船の帆の改良や択捉島・箱館の湊の整備で、工楽松右衛門の名は世間に知れ渡るようになっていました。1807(文化4)年に、択捉島に湊を築くことからいうと足かけ7年ほどで関係していた蝦夷地での御用を終えることになります。初代工楽は兵庫津に戻り、佐比江新地(さびえしんち)を拠点に廻船業を営んでいました。作家玉岡かおるさんも書かれていますが、店の者は早く帰ってきて、本来の仕事に専念してほしいと願っていました。幕府の仕事は名誉にこそなれ、お金にならないからです。やっとホッとしたのもつかの間、そこに故郷高砂から便りがありました。

高砂ではこんなことが起きていました。加古川の上流から運ばれてきて土砂が河口で堆積し、湊が機能しない危機的な状況で、高砂の舟運、海運が壊滅的は打撃を受けていました。湊の改修なら「兵庫津の松右衛門が最適」との名前が響き渡るほどの活躍を既に松右衛門はしていました。それは「世のために」として、幕府のために働いた松右衛門が獲得した称号でした。

と共に、高砂を管轄する姫路藩のこんな事情もありました。姫路藩の家老、有能の士・河合隼之輔(はやのすけ)(寸翁)が1808(文化5)年に「諸方勝手掛(しょほうかってがかり)」を仰せつけられ、藩の財政再建に乗り出していました。この時、姫路藩は収入の7年分にあたる73万両の莫大な借金を抱えていました。高砂湊の改修も姫路藩財政改革においても必要なことだったのです。寸翁は綿の専売で、姫路藩を黒字にしただけでなく、高砂に庶民の学問所「申義堂」を建てました。

かつて1801(享和元)年、幕府代官所が姫路藩に対して、幕府の年貢米を積み出す船が河口へ着けるように土砂浚えをするように要請したのですが、姫路藩は「人力による土砂浚えは不可能」と突っぱねていたのです。しかし、そのころはまだましで大船を沖に停めておいて、満潮時にひらた船で沖と湊を行き来できました。それすら困難を極めるようになりました。まさに高砂湊の死活問題にまで発展しつつあったのです。

そこで高砂衆も動かざるを得なくなりました。それが1808(文化5)年のことになりますが、そこからは紙幅の関係で次回に回すことにします。

写真1 工楽松右衛門顕彰碑 兵庫区八王寺
写真2 兵庫津の偉人;工楽松右衛門(街頭看板)
写真3 兵庫津の偉人:高田屋嘉兵衛(街頭看板)
写真4 高田屋嘉兵衛本店の地

みなと町高砂・運河物語#12(令和四年神無月)

高砂を取り巻く湊・河が浅くなり、死活問題までになり、1808(文化5)年、高砂を代表して、川方世話役;柴屋三郎右衛門・塩屋太一郎・鍵屋孫右衛門から、姫路藩からも工楽松右衛門に築堤・改修・浚渫工事の必死の依頼がかかりました。この事業は初代工樂以外には成し遂げない大事業でした。

ごめんなさい。ここでまた、横道にそれてしまうのですが、その工樂松右衛門生誕280周年を記念して、北前船に見立てて日本で唯一、一般の方が自由に乗れる帆船みらいへを使って「北前船航路辿り、ようこそ海から高砂へ」を実施します。

この事業期間(11月12日~13日)は、2日間で約3万人が来られる万灯祭2022の期間と重なります。その万灯祭見学もしていただけたらなと思います。宿泊のホテルもあります。

11月12日(土)

Aコース(50名)4,800円

・朝8時、神戸中突堤発~帆船未来へ~高砂までお客さんをお連れします。船中で操舵体験等様々な体験をして13時30分高砂港着

・歴史ガイド案内・デジタルマップによる”日本遺産北前船寄港地・高砂ツアー”を開催

・17時解散 山陽電車高砂駅

Bコース(30名)7,800円/人

親子15時工楽松右衛門旧宅~ヨット体験 ⇒帆船みらいへ~サンセット&工場夜景クルーズをし、船上バーべキュー、その後高砂沖で船中泊です。

11月13日(日)

Cコース(20名)5,800

・8時30分高砂港発~帆船みらいへ~播磨灘体験~11時30分室津港(1300年の歴史あり)着

・歴史ガイド案内による”日本遺産北前船寄港地・室津ツアー”を開催

・15時室津発~送迎バス~16時高砂へ

Dコース(50名)5,800円

・9時高砂発~送迎バス~10時室津着

・歴史ガイド案内による”日本遺産北前船寄港地・室津ツアー”を開催

 ・14時室津港発~帆船みらいへ~17時高砂港着

??(検討中)船上パーティ18時30分~   別個に船中泊可

11月14日(月)

Eコース(50名)4,500円

・11時工樂松右衛門旧宅~ヨット体験~帆船みらいへ~高砂沖~明石海峡~北前船寄港地・兵庫津~17時神戸中突堤着

 等々、盛りだくさんになっています。どれかに応募されることを楽しみにしています。

関係資料を添付します。

問合せ先 JTB姫路支店ツアーデスク 電話079-289-2120です

みなと町高砂・運河物語#11(令和四年長月)

初代工樂が運河物語NO.9で

・1802(享和2)年 60歳

蝦夷地埠頭築造の功により、幕府より30両三人扶持を給され、「工楽」の姓を賜る。函館奉行の御雇(主に廻船の仕事)を務める(文化4年まで)。そのところまで書きました。このところを『工楽松右衛門伝』著者松田裕之さんが月別に整理して年表にされています。  私にはドラマを見ているように感じます。ぜひ、NHKの大河ドラマに取り上げてほしいですね。

*御影屋松右衛門は後の工樂松右衛門のこと。

1801年(享和元)年(初代59歳)

3月 御影屋松右衛門、甥の宮本長兵衛とともに、高田屋嘉兵衛の官船回航にしたがい箱館に到着。普請用特殊船舶を駆使して、箱館地蔵町沖の埋立、築島造成の港湾整備事業に協力

1802(享和2)年(初代60歳)

2月 御影屋松右衛門、大坂町奉行所より招聘を受け、江戸出府を拝命。

5月 御影屋松右衛門、手船八幡丸で江戸に出府。幕府より蝦夷地築港を拝命し、箱館を経て択捉島に渡航。同島のホンムイにおいて船繋場の築造に着工。

8月 御影屋松右衛門、「恵登呂府波戸築立」の労を賞され「工樂」姓を拝領。

10月 御影屋松右衛門、厳寒期を迎え、やむなく築造の中途で箱館に寄港。

12月 御影屋松右衛門、慰労金30両を拝受。

1803(享和3)年(初代61歳)

3月 御影屋松右衛門、箱館より択捉島に再渡航し、ホンムイ船繋場の築造再開。

10月 御影屋松右衛門、択捉島ホンムイの船繋場竣工。箱館寄港。

1804(享和4/文化元)年(初代62歳) 

4月 御影屋松右衛門、箱館地蔵町沖の築島に、播磨国印南郡石乃寶殿産の竜山石をもちいた船渠築造(~8月)

9月 御影屋松右衛門、箱館より羽州大山を経て兵庫津に帰還(~11月)

となっています。これで実は私が疑問に思っていたことが、分かることになるのです。というのは、初代工樂が工事に関わった順番が①函館港の造成⇒②択捉島の港造成⇒③箱館船渠(ドッグ)の造成で、択捉島の港造成途中で、「工樂」(工(たく)みて樂しむ=工夫して楽しむ)の姓を賜ったことになります。

閑話休題

今年が工樂松右衛門生誕280周年を記念して、帆船「みらいへ」を使って「北前船航路辿り、ようこそ海から高砂へ」を実施します。11月12日(土)~14日(月)です。そのことにも触れようと思ったのですが、次回(NO.12)にします。ご期待ください。

*写真は全て松田裕之著『工樂松右衛門伝』より

写真1 高田屋嘉兵絵像
写真2 択捉島絵図
写真3 工樂松右衛門が使っていた船ダンスと船舶往来手形
写真4 大型和船の名称関連図
写真5 現在の箱館(遠景)

みなと町高砂・運河物語#10(令和四年葉月)

運河物語として、加古川・高砂川改修・浚渫、高砂川に波戸道、東風請け波戸、一文字波戸を築造し、新たな湊を築いた工楽松右衛門ですが、今脚光を浴びている関係があり、様々な動きがあります。

嬉しいことですが、苦楽松右衛門研究の決定版と言われる本『近世海事の革新者・工楽松右衛門伝~公益に尽くした70年』(冨山房インターナショナル)が神戸学院大学・松田裕之教授の手によって出版されたことはNO.8で触れましたが、今度は、その著者の講演会が工楽生誕280周年を記念して、12月3日に高砂市保健文化センターぼっくりんホールであります。13時30分からです。講演会の後、工楽末裔の方2人と松田教授が鼎談されます。

主催は高砂・工楽松右衛門文化塾実行委員会です。私たち「ルネサンスみなと町高砂」も共催で入ります。

ついでに、堀川周辺を含む高砂町から文人墨客が多く輩出しています。それは舟運、海運で栄えた「繁栄の町=文化の町」でもあったからです。それを特集した巡回パネル展「高砂町ゆかりの人物展(29人展)」を9月15日から工楽旧宅で行います。当日開催記念式典として、工楽旧宅横の森学園開設予定地をお借りし、約20枚のB1パネルを全て並べて、ゆかりの人物の末裔の方々にスピーチをいただくとともに、多数の来賓も参加予定になっています。「ルネサンスみなと町高砂」主催です。初めての試みで取り組んでいます。

余談になるのですが、工楽旧宅を改修する時に、兵庫大学金子哲教授や神戸女子大学今井修平元教授が立ち会われて、捨てるものか、残す資料かを選別されました。この度、金子教授を工楽旧宅横の明治時代の郵便局建物、現在高砂市交流観光ビューローが入っている建物を案内しました。たくさんの書画あるのですが、ある書の額を見て、これは有名な橋本関雪の作品ですと、その場で鑑定。その他の作品も名のある作品だと思うので、美術専門家に見てもらったらとのアドバイスをいただきました。かつての文化を大切にする気風を感じました。

さて、59歳の工楽が択捉(エトロフ)島有萌(アリモエ)港に湊を築くとともに、各種工作船を発明し、60歳の時に、幕府より「工楽」の姓を賜ったことを書きました。

この時に彼が発明したものが、帆や工作船以外に新巻鮭だと言われています。工楽家文書を見ると、エトロフから積んだ荷物の中に「塩切鱒(ます)」という言葉が出てきます。「塩切」とは魚の塩漬けのことで、腐らないように塩で固めた鱒のことです。これでは美味しくないことは一目瞭然です。そこで工楽は「甘塩製法」を発明し、松右衛門帆で早船を仕立て、大坂や兵庫津に届けて喜ばれました。この記述は高砂市で高校の教員をしていた小路敏著『工楽松右衛門』に初めて出てきます。司馬遼太郎氏は『菜の花の沖』で「十分に水洗いをしてから甘塩(薄塩)を加え、わらでつつんで」と表現し、腐敗が進まないうちに早船をしたてたと書いています。

子孫の隆造さんにお聞きすると、「考えられることであるが、既に甘塩方式は存在していたが、工楽が更にそれに工夫し、松衛門帆の早船で輸送を可能にした」(趣旨)ので、「発明」とまでは言いえないのでないかとのことでした。

写真1 工楽全身塑像(『工楽松右衛門伝』より)

写真2 橋本関雪書(高砂市観光交流ビューロー・上の書額)

写真3 工楽松右衛門関係地図

写真4 江戸物産 鮭(工楽旧宅VTR)

みなと町高砂・運河物語#9(令和四年文月)

①~④にある年齢は初代工楽の数え年齢です。

①1794(寛政6)年 52歳 

4月松右衛門と北風荘右衛門が新造した住吉丸で、 石狩のエゾマツを大阪へ届ける計画をしている。

②1796 (寛政8)年 54歳 このころ 直乗船頭となる。

③1801(享和元)年 59歳

 このころ択捉(エトロフ)島有萌(アリモエ)港に湊を築く。各種工作船を使用

④1802(享和2)年 60歳

 蝦夷地埠頭築造の功により、幕府より30両三人扶持を給され、「工楽」の姓を賜る。函館奉行の御雇(主に廻船の仕事)を務める(文化4年まで)。

1790年代、寛政の頃、松右衛門は御影屋から独立し、「御影屋松右衛門」として直乗(じきのり)船頭になります。直乗船頭とは、自身が船主であり、船頭も務めて廻船業を行う人のことです。独立後の松右衛門の活躍は目覚ましいものでした。兵庫津の豪商である北風荘右衛門(そうえもん)と共に蝦夷地の荷物を大坂へ届ける計画をし、酒田(山形県)などの北国を中心とした廻船業を行いました。各湊へ出入りをするうちに、船をつける時に不都合なことなどの問題に気が付き、「世のために工夫する」熱が高まったと考えています。

やがて荷物を運ぶだけでなく、湊の普請にもかかわるようになりました。そのための私財をはたいて、工楽ならではの工作船を発明しました。

まず、最初に手掛けた大きな仕事が、蝦夷地である択捉島に湊を作ることでした。このことはロシアの南下による海防上、幕府はどうしても択捉島に湊が必要になり、兵庫津の北風家を通して、最も信頼できる松右衛門に任された仕事でした。というより状況から考えて、松右衛門しかこの仕事はできなかったことは確かです。

択捉島ではシャナ会所近くのアリムイの手前のホンムイというところで、海底の大石を発明した工作船で取り除き、湊として整備しました。この作業は寒さとの戦いで、一旦は引き上げましたが、翌年に完成しました。この湊は「松衛門澗(ま)」(澗は小さな湊の意味)と呼ばれるようになりました。

また、次の箱館では内澗町(現末広町付近)の東岸に湊を築き、たでば(ドッグ)を故郷の火に強い竜山石を使って築いている。

蝦夷地での土木事業の功績で、幕府より「工夫を楽しむ」ということで「工楽」という苗字を賜りました。以来、「湊の普請や造船のことなら工楽松右衛門へ」という評判が立ちました。また、幕府も持ち得なかった初代工楽の技術に、幕府も手放せなかった。また、初代工楽は「世のために」の精神を幕府の仕事で発揮しようとした意図があったように私(藤村)は思っています。そのために1807(文化4)年、65歳でまで幕府の蝦夷地での御雇(おんやとい)を続けている。

玉岡かおる氏の『帆神』にも書かれているが周りから「得にもならないことをいつまで続けているんだ」という声を聞きながら幕府の仕事を続けました。当時、千石船で1往復すると1億近い収入があったと言われています。幕府の仕事は名誉にこそなれ、廻船問屋衆は嫌がっていました。

みなと町高砂・運河物語#8(令和四年水無月)

嬉しいことですが、工楽松右衛門研究の決定版と言われる本『近世海事の革新者・工楽松右衛門伝~公益に尽くした70年』(冨山房インターナショナル)が神戸学院大学・松田裕之教授の手によって出版されました。工楽子孫の方々にも徹底取材されており、「飽くなき理の追求が導く創意工夫、そして目先の利に囚われぬ無私な行動によって、内海海運の時代を先導した工楽松右衛門の70年の生涯に、私たちはいまこそ注目すべきではないだろうか」と著者は言われています。年表も“伝承”“推定”“事実”と分けておられ、その学問的態度に好感が持てます。 

5月27日「関西北前船研究交流セミナーin高砂」が、高砂市文化保健センターを会場にありました。その後、1600年代初頭、高砂城があり、歴史的景観形成地区である高砂町内歴史散策と古民家レストランを利用していただき、高砂神社での能『高砂』鑑賞をしめくくりとしました。その中でまた嬉しいことですが、歌手の五木ひろしさんが「北前船」「港町恋歌A,B,C」発表されたことが伝えられました。しかも「港町恋歌」は北前船が寄港した港を全て歌い上げるという今までにない壮大な曲になっています。

もう1つだけ(ゴメンナサイ)。5月23日に明石シニアカレッジの方14名が工楽旧宅に来られました。この1年間、工楽松右衛門を調査・研究するとのことです。私(藤村)がコーディネートさせていただきました。職員の案内による工楽旧宅の見学、観光ビューローで昼食と研修会、御影屋の広い工場見学、高砂神社、昭和初期建築の商工会議所、銀座通商店街を通り、初代工楽が学んだと玉岡かおるさんが書かれている申義堂、工楽松右衛門のお墓がある十輪寺等を回りました。途中、古民家を改造したお店2ヶ所(レストラン・喫茶店)に寄り、中を見学させていただきました。本当は今も現役で使われている東風請波戸(こちうけはと)と一文字波戸を見学に入れたかったのですが、歩くには遠すぎました。

明石シニアカレッジの方が面白い質問をされました。要約すると、

「①初代工楽生家が東宮町にあるんやったら、何も、南堀川の奥の今津町(工楽旧宅)に転居せんと、高砂川のほとりの方が出入りしやすかったんやないか」

「②初代工楽が高砂におった時はどんな子どもやったんや」

①については、工楽旧宅は1843年建築である。子孫の方によると4代目が今の家を購入したとのこと。初代工楽が亡くなったのは1812年です。晩年の初代工楽はどこに住んでいたのか、私は分かりませんが、今井修平元神戸女子大教授が「工楽家は本来、漁師だけではなく、手広く廻船業を営んでいたのではないか。そんな匂いがする。」という言葉と繋がり、実家はかなり大きな家で、初代工楽はそこを晩年の住居にしていたのではないかと推定しています。

②は『農具便利論』の著者;大蔵永常によると初代工楽は利発で、子どもの頃から、松右衛門が網をかけると必ず魚が獲れた。どの時期にどこに仕掛けをすればどんな魚が取れるか知っていた、と書いている。大人になってからは『西摂(せいせつ)大観』(明治44)年刊には、相撲取りの黒岩関とのやり取りで、「なかなか力が強く、相撲取り以上の体格で、常に黒岩関とよく気が合って、飲み食いを共にしていた。1日1升5,6合の飯を食べ、酒も2升ほど飲んでも平気だった」と書いてある。

そうすると幼少より大きな子だったことが伺えるし、後年のこのことを考えると性格は豪胆な子だったのかなと想像します。玉岡かおるさんもそんな風に描かれています。

その玉岡かおるさんが『帆神~北前船を馳せた男・工楽松右衛門』でこの度、新田次郎賞を受賞されました。おめでとうございます。

今回は年表に戻り、初代工楽52歳から書き出す予定だったのですが、次回9号にします。52歳以降から、湊作り・改修、湊普請の工作船の発明等で、初代工楽の名前が全国に轟くことになります。

写真1『工楽松右衛門伝』

写真2関西北前船研究交流セミナー(2022.5.27)

  

写真3能『高砂』高砂神社(5.27)

写真4工楽松右衛門の墓十輪寺(5.27)

写真5松右衛門帆を現代に蘇らせた「御影屋」明石シニアカレッジGに説明(5.23)

みなと町高砂・運河物語#7(令和四年皐月)

前回は高砂市内の中学生は勿論、ご高齢の方でも、高砂町生まれで、海運界を飛躍的に発展させた工楽松右衛門がどんな人物か、ほとんどが知らないこと書きました。

高砂の町方の強い要請を受け、姫路藩主のたっての願いで、初代工楽は高砂川・堀川の浚渫、今も現役の頑丈な東風請波戸(こちうけはと)・一文字波戸、波戸道(はとみち)は拡張されて今も使用、亀甲堤を使って加古川の対岸まで人の往来の橋をつけました。今の加古川にかかる最南端橋・相生橋の原型です。

運河物語NO.5号では「工楽松右衛門50歳、この頃、独立して、御影屋松右衛門を名乗る」ところまで書きましたが、この流れで、高砂での初代工楽の取り組んだことを書きます。

その頃の初代工楽は、船の帆の改良や択捉(エトロフ)島の・箱館の湊の整備で、世間に知れ渡っていました。大衆受けし、錦絵にもなっています。ある研究者は多分芝居の主人公にもなっていたのではなかと推定しています。

姫路藩の財政を立て直した名家老・河合道臣(みちおみ)(寸翁すんのう)の後押しもあり、1808(文化5)年冬から1810(文化7)年まで工事をすることになりました。彼の手がけた築造物を見ると、川の流れに逆らわず、かつ、川の流れを抑えることを念頭において工事をしたことが分かります。また、全く手を抜かなったことも感じます。

まず、高砂川の上流にある百間蔵(現三菱製紙高砂工場)から河口の川口番所(高砂町南浜町)までの約1㎞の川浚えをしました。これについて初代工楽は「百間蔵迄大船をつけ申すべく」と語った通り、大型の船も百間蔵の近くまで通船できるようになしました。

川の東向かいには「向島」あるいは「東嶋」と呼ばれる大きな中洲がありましたが、これはこのままにしておくことで、中洲側に船を停泊させることができるようになりました。

さらに川の土砂を浚えただけでなく、加古川下流の所々を「磐礫(いしがき)」で修理し、杭を打ち、堰を増設しました。そして、百間蔵の上流の平岸(ひらぎし)堤の向う岸には剣先土砂除(けんさきどしゃよけ)堤を築きました。これらは上流から流れてくる土砂をせき留め、湊へ流さないという役目を果たしていまいます。

また、百間蔵の南蔵の南東部にある津留(つどめ)番所から東側へ橋(現永楽橋)を架けました。東側にある川の2つの中洲に石垣で堤(亀甲堤)を作ることで橋とし、加古川の対岸につなげました。中洲をつなぐ石組は湾曲しており、まともに水流の影響を受けないような工夫がしてあります(写真1参照)。

さらに高砂川の川口番所から南側にすでに形成されていた長い洲の一部を利用し、盛り土をしたあと、石で護岸しています。南約1㎞の波戸道ができました。家が立ち並ぶほどの道幅がありました。この場所は現在の南材木町です。そして波戸道の突端に台場を作り、高燈籠を築き、その間が湊になり、波戸道の東側に船を係留することができるようにしました。これで高砂にもう一つの新しい湊ができたことになります(写真2,3参照)。

ここまで書いてきて皆さんはお分かりになったかもしれませんが、この初代工楽の工事には、巨額の工事費がかかりました。

当初の見積もりは銀250貫目でしたが、工事当初の1808(文化5)年だけで40~50貫目かかっており、今後どのくらいかかるか見当もつかないと、姫路藩の大庄屋を震え上がらせるほどでした。結局、総工費は350貫目となり、超過した100貫目は高砂町中全体の負担になりました。(次回に続く)

写真1 初代工楽松右衛門が築いた橋と亀甲堤

写真2 高砂湊の修築図

写真3 初代工楽松右衛門が築いた波戸道と湊の風景

写真4 現在の東風請波戸(手前)と一文字波戸(中)

写真5 現在の高砂川風景(左;向島公園 右;南材木町・波戸道)

みなと町高砂・運河物語#6(令和四年卯月

前回は高砂町生まれの工楽松右衛門がどんな人物か、から、この運河物語を始めました。

「工楽松右衛門50歳、この頃、独立して、御影屋松右衛門を名乗る」ところまで書きました。この3月17日、高砂市の松陽中学校で工楽松右衛門のことを話す機会がありました。2年生160人に話をさせてもらったのですが、日本海運界の偉人である工楽を知っている子が2~3人だったと思います。子どもさんは勿論、高砂市の松陽高齢者大学で2回(7月・12月)話をするのですが、担当者曰く「名前はかろうじて知っている方はいても、業績はまず知らないでしょう」とのこと。

これをお読みになっている方には、高砂市外も多いのでなお更、「知らない感」があると思います。中学生にはエピソードを交えて、以下の5点の業績を紹介しました。

1.松右衛門帆の発明(技術を公開) 帆船の速度アップと大量物流が可能に

2.港湾特殊作業船の発明(技術を公開)杭打船、轆轤(ろくろ)船、石釣船等

3.港湾の築港と改修  択捉島、函館、大浦、鞆の浦、高砂港等

4.公益(世のため)に一身を捧げる姿を後世に残した。

5.故郷高砂の発展に寄与した。

ところが、4の公益(世のため)に生き切った工楽松右衛門がここまで地元で知られていないのに驚きました。二宮尊徳は農村改革を成し遂げ、全国的に知られています。ところが、海運業界にここまで貢献し、しかも幕府の信頼の元、長きにわたって仕事をした松右衛門を、日本の人々に知ってほしいと思います。

次回講演会は工楽さんのおひざ元の高砂中学校で話をすることになるのですが、高砂中学校は郷土学習の時間があり、工楽松右衛門を調べているグループがあります。余談ついでですが、以下の文章(一部)を中学生に贈りました。

「工楽松右衛門はどんなに発明、開発しても特許は取りませんでした。全て“世のため”の一点にしぼって、公開することに力を注ぎました。

工楽研究の第一人者の神戸女子大学の今井修平元教授は“日本に発明者はたくさんいるが、工楽ほど、世の中に貢献した人物は少ない”(趣旨)と言われています。

将来、仕事で他府県に出る人、仕事で高砂をねぐらにする人等いると思いますが、故郷を誇りに持てることが、人生を豊かに感じることになりますし、人生を豊かにすることになります。“ルネッサンスみなと町高砂”では、高砂市内の中学生・高校生に“世のため”一筋の工楽を知ってもらう活動を広げていくことにより、工楽を知った皆さんが、故郷に少しでも誇りをもってもらえるなら嬉しく思います。これからも更に調べを進めながら、工楽松右衛門をPRしていきたいと思います。

皆さんが、どの地にいても、心のどこかに“世のため”精神で生きた工楽の生き方を参考にして活躍していただきたいと思います。工楽は技術を全て公開した故(ゆえ)をもって、当時の幕府を含めた信頼は抜群でした。それがこの世の”大事な不思議”です。」

写真1 公募により令和4年2月に完成したばかりの工楽松右衛門かるた

写真2 工楽松右衛門紙芝居を楽しむ遊ぶ子ども達(2022.3.26実施)

写真3 松右衛門が発明した石釣船

写真4 北前船の模型(工楽松右衛門旧宅)

写真5 工楽松右衛門が築いた加古川の渡し橋(相生橋の原型)

みなと町高砂・運河物語#5(令和四年 弥生)

前回は高砂町生まれの工楽松右衛門がどんな人物か、から、この運河物語を始めました。

工楽松右衛門が発明した「松右衛門帆」によって海運における大量輸送・スピード輸送が可能になりました。しかし、それは初代(松右衛門)が40歳の時です。高砂川浚渫・普請と湛保の築造を行ったのは66歳の時です。それも晩年の話になります。では、初代は兵庫津に移って、どんな生活を送っていたのか、これが高砂市教育委員会編『工楽家文書調査報告書』を見ても資料がなく、定かではありません。8代目の子孫の方にお聞きしても、兵庫津が空襲にあってしまい、御影屋松右衛門宅も含めて丸焼けになったので、無いのが現状とのことです。初代は、

①1763(宝暦13)年 21歳 兵庫津の廻船問屋・御影屋に奉公し、船乗りになる。②1766(明和3)年頃 24歳 除夜に航行し、迷信を打ち破る。迷信「大晦日の夜に船を出すと災難に遭う」③1777(安永6)年 35歳 この頃までに御影屋の廻船を任される。御影屋平兵衛(へいべい)の持船・八幡丸の沖船頭になる。 *沖船頭=船主に雇われて船頭を務める人④1779(安永8)年 37歳  御影屋平兵衛の持船・春日丸の沖船頭になる。⑤1782(天明2)年 40歳 「松右衛門帆」を発明する。

播州の特産品であった木綿を使って厚くて、丈夫な帆布を作成。従来の刺帆(さしほ)⇒「職帆(おりほ)」へ。喜多二平協力のもとで工夫し・生産した。・利点;帆走速度が向上。航海の所要時間短縮、破損しにくい、破損に伴う取り換え簡単。 乾燥しやすい。

⑥1784(天明2)年 42歳  秋田より巨大木材を筏(いかだ)に組んで運んだことが大坂市中に知れわたり有名人に。姫路藩の依頼により、秋田から大阪へ巨大丸太5本を筏 方式にして運ぶ。旗「姫路の五本丸太」を立てた航海で、江戸・品川で大騒ぎ。姫路藩主酒井候「藩の名前をあげた」とその豪胆を褒める。⑦1792(寛政4)年 50歳 この頃、独立して、御影屋松右衛門を名乗る。と『湊とともに』(高砂市観光交流ビューロー刊)ではなっています。

ここで、初代に関する4つのエピソードをあげたいと思います。

1つ目は大飲みの初代松右衛門です。司馬遼太郎さん『菜の花の沖』、玉岡かおるさん『帆神』でも同じように扱っていますが、出典は1911(明治44)年11月に発行された『西摂大観』です。曰く「中々強力で、体格からいうても相撲取以上の骨格で、常に黒岩(注;相撲取)と能く意気が合うて、飲み喰ひを共にして居つたが、其の頃一日一升五六合の飯を喰ひ酒も二升位飲んでも平気なもの」による。

2つ目は荒巻鮭(新巻鮭)を初代が発明したというものです。これまでは塩でまぶして腐らないようにしていたのですが、初代は甘塩製法を発明し、薄塩にして「松右衛門帆」の早船で大坂方面に送ったというのです。(小路敏著『工楽松右衛門』)

3つ目は「松右衛門帆」発明に関して、初代は糸を作るところから始め、特別に太い木綿糸を作り、それを2本撚(よ)り合わせ、その糸に合わせて織機も改良しました。ここのところは玉岡かおるさんが『帆神』でドラマチックに描かれています。「松右衛門帆」は「織帆」と呼ばれ、高価でしたが、数十年のうちに各地に広まりました。初代はこの製法を公開し、積極的にこの技術を人に教えました。初代の信念「世のために」のままに。

4つ目はこの流れでは50歳の時に御影屋から見込まれて屋号をもらい、「御影屋松右衛門」を名乗っていますが、御影屋でも平兵衛ではなく、藤兵衛から屋号をもらったことが最近の調査で分かったとの、ご子孫の指摘です。

写真1 松右衛門紹介VTR迷信「大晦日の夜に船を出すと災難に遭う」

写真2 松右衛門紹介VTR 初代のリーダーシップとして司馬遼太郎も絶賛

写真3 帆開発の地の利 播州が木綿の生産地であった

写真4 初代工楽松右衛門作の帆布(工楽旧宅にあったが散逸)

写真5 実際に使われていた松右衛門帆

写真6 工楽松右衛門関係地図

みなと町高砂・運河物語#4(令和四年 如月)

今回は高砂町生まれの工楽松右衛門がどんな人物から、この運河物語を始めたいと思います。高砂神社にある工楽松右衛門銅像の案内碑文(写真1)は簡潔に要を得て、以下のように書かれています。

”寛保3年(1743年)~文化9年(1812年)高砂は小さな町である。この小さな町から「後の世のため」に尽くした工楽松右衛門が出た。町の大小は関係がない。志があるか、その志が広く大きなものであるかどうか。そして、志を実現するために努力しているかどうか。それが大切ではないか。

幼少の頃から改良や発明が好きだった松右衛門は、それまでの脆弱な帆布のかわりに播州木綿を使った厚地大幅物の帆布の織り上げに成功し、「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に用いられるようになった。また、松右衛門は幕府の命を受けて千島の択捉島に埠頭を築き、函館にはドッグをつくった。

これらの功により、「工夫を楽しむ」という意味の工楽の姓を与えられ、その後も優れた港湾技術者として活躍し、高砂港や鞆の浦防波堤などにその足跡をみることができる。松右衛門の工夫や発明は、松右衛門帆以外にも荒巻鮭(新巻鮭)、石船、砂船、ろくろ船、石釣船などもある。“

工楽松右衛門は1743(寛保3)年、高砂の漁師、宮本松右衛門の長男として、東宮町に生まれる(写真2)。生家は廻船業も営む。そして、1763(宝暦13)年(21歳)の時に、兵庫津の廻船問屋・御影屋に奉公し、船乗りになったことは分かっています。15歳ごろに高砂から兵庫津に出たのか、20歳ごろに出たのか、今のところは意見が分かれています。そして、家出なのか、両親合意の元なのかは分かっていません。長男であった初代工楽のことを考え、当時の年齢構成を考えると15歳の時に、家出をしたのではないかと私は推測しています。

農学者・大蔵永常(ながつね)は、初代工楽とほぼ同時代人で、工楽の人柄や独創的な才能に魅力を感じ、会いたがったが、1812(文化9)年の初代工楽の死で、それが叶いませんでした。そのために、養子である2代目工楽に初代工楽のことを聞いて、『農具便利論』に次のように記述をしいます。

「魚を釣る糸の手応えだけで、かかった魚の種類が、いつのまにか分かるようになり、また時節時節の魚の群れる場所も知るようになった。狙いをつけて網を打つと、それが外れることがなかった。そのように彼は何事につけても、若い頃から旺盛な探求心と創意工夫することが好きであった」(現代語訳)と。そして,農具とは言い難いが、初代工楽の開発した工作船とエピソードを数多くその著書に残しています。

利発な初代工楽は、高砂には飽き足らず、星雲の志を抱いてと言いたいのですが、「工楽家文書調査報告書」を見ると、何らかの高砂におれない事情もあったようです。

写真では工楽松右衛門絵図と銅像を載せておきますが、銅像はかなり美化されているように思います。

(写真1)工楽松右衛門銅像前の案内石碑(高砂神社)
(写真2)近世の工楽松右衛門生家と工楽松右衛門旧宅
(写真3)現在の高砂町((Google Earthより)
(写真4)現在の高砂川(高砂大橋より)
(写真5)後年の工楽松右衛門絵像(兵庫県史より)
(写真6)後年の工楽松右衛門銅像(高砂神社)

みなと町高砂・堀川物語#3(令和四年 睦月)

前回触れましたが、高砂湊の修復は、姫路藩では不可能とまで言われていましたが、姫路藩にとっても、地元にとっても、死活問題といってもいいほどのところまで来ていました。そこで白羽の矢が立ったのは、高砂出身の工楽松右衛門でした。

文化5(1808)年閏6月24日、初代工楽66歳の時、「高砂の川方世話役の柴屋三郎右衛門、塩屋太一郎、鍵屋孫右衛門、高砂川の浚渫について、松右衛門に協力を仰ぎたい」旨を申し出る文書が工楽家文書に見えます。また同文書に「冬、姫路藩の命により高砂川浚普請と湛保の築造を行う」文書も残されています。

これが初代工楽しか為し得なかった一大工事として、現在でも向島公園(兵庫県立高砂海浜公園)の島の南先に東風請(こちうけ)波戸、一文字波戸として、竜山石割り加工で頑丈に作った原型のままで残されています。また、その時に作った波戸道は高砂の近代化の波を浴びながら、その位置を確保した形で残っています。これがどれほど大工事だったかは後の運河物語で書きます。

この仕事は文化7年までですが、川と湛保の保守管理を含め、明治初期まで続きました。それにしても今残されている波戸や広島県鞆の浦に残されている大波戸を見ても、頑丈で一目で初代工楽築造と分かるような、竜山石割り加工の頑丈な波戸です。

その当時の工楽松右衛はどんな評価を受けていたのでしょうか。

兵庫津の繁栄を築き、初代工楽の「世のために」という精神に大きく影響を与えた北風荘右衛門の信頼厚く、御影屋平兵衛からも、屋号を継ぐほどの信頼を得、工楽発明の「松右衛門帆」により、海運業界における大量輸送・スピード輸送の元を築きました。

天保4(1784)年、42歳の時には、秋田から大材、切り口直径1.5mともいわれる材木5本を船に乗せるのではなく、材木を組み合わせて筏形式で大坂まで航行したことで、大坂どころか、江戸までその評判が届き、姫路藩主からその豪胆ゆえにお褒めがあるほどでした。

また、蝦夷地埠頭(箱館湊)築造の功により、「工楽」姓を賜り、名字帯刀を許されており、初代工楽が持つその技術に対して熱い信頼がありました。

広島の鞆の浦の大波戸築造の工事を晩年の初代工楽に頼んだことに対して、鞆の刊行物で「工楽ほどの人物に頼めたことが、当時の鞆の繁栄を物語っている」(趣旨)とまとめられているのが、印象的でした。

それほどの人物として、認められていたのです。

実はこの運河物語は少し先走っています。お読みの方は工楽松右衛門がどんな人物か、高砂との関係をお知らせしないままに進んでいますので、次回は、初代工楽の生い立ちから話を進めていきたいと思います。

写真-1 工楽松右衛門翁銅像 高砂神社
写真-2 現存する「東風請波戸」工楽松右衛門築造
写真-3 現存する「一文字波戸」工楽松右衛門築造
写真-4 現在の高砂港の風景(高砂川の先に東風請・一文字波戸がある)
写真-5 鞆の浦の大波戸 工楽松右衛門築造
写真-6 実際に使われていた松右衛門帆 千葉県立関宿城博物館蔵

みなと町高砂・堀川物語#2(師走)

NO.1で姫路藩主・池田輝政が、慶長17(1612)年播磨の海の守りを固めるために高砂城を築かせたことをお伝えしました。その時に、城を中心に私たちが言っている「堀川」が形成されました。南堀川は旧工楽邸の前の短い堀だけで、その前の船が行き来している、一般に堀川といわれているのは高砂川なんです。そして、旧浜国南側の北堀川、十輪寺前の西堀川、そして、南側は現高砂神社前が海でしたので、それで4方を堀・堀代用の川・海で囲まれました。

写真1;今も残る高砂城の石垣【横積み部分】
写真2;現在の高砂川
写真3;高砂神社前にあった常夜灯

80才代の地元の方に聞くと、その方が小さい頃は、西堀川はまだあり、幅は「8畳の間と縁側を合わせたほどの幅」だったとのこと。また、発掘調査で明らかになっていますが、旧工楽邸前に雁木(がんぎ・船着場)があり、今は当時の状態で保存されています。

写真4;旧工楽邸前の雁木

姫路藩内において、重要な湊は4つ。室津(むろつ)、飾万津(しかまづ)、家島(いえしま)、高砂です。高砂は年貢米の積み出し等の重要な湊として位置づけられています。瀬戸内海、加古川流域をつなぎ、荷物の集積地であり、播磨第一の港であり、その経済力をもって、高砂に多くの「高砂文化」なるものが花開きました。その一要因に高砂には御番所2ヶ所以外に武士がおらず、自由な気風が根付いたとも言われています。

写真5;加古川の舟運で運ばれたもの

ところが大河と海の交差点は、栄える要因でありますが、どの地域でも悩まされた問題があります。高砂においては、加古川が上流から土砂を流しこみ、もともと高砂は川底が浅く、江戸後期には干潟である洲(す)が広がっていました。そのために、沖に大型船を停泊させ、「ひらた船(底の浅い船)」で岸までの運搬をしていました。土砂が堆積すれば、藩からの費用で「川浚(かわさら)え」をしていましたが、やがて干潮時にはひらた船も動かせなくなりました。

高砂は姫路藩以外にも加古川流域の幕府領や諸大名から大阪に送られる年貢を積み下ろしするところでもありました。また、私たちの今の感覚ではピンと来ないかもしれませんが、当時はお遍路さん、金比羅参詣、安芸の宮島参りが盛んで、そのための湊でもありました。

当の高砂城は足かけ4年で元和元(1615)年に「一国一城令」で廃城になりましたが、加古川・高砂川が一大物流拠点としての重要性には変わりありません。高砂川、側の加古川を含めて、どんどん土砂がたまってきました。現在でも加古川で大型浚渫船による土砂の除去を行っています。

高砂湊の修復は、姫路藩では不可能とまで言われていましたが、姫路藩にとっても、地元にとっても、死活問題といってもいいほどのところまで来ていました。高砂出身の工楽松右衛門が開発した工作船や築港の技術に賭けるしかなかったのです。

写真6;現在の高砂町

そこで初代工楽松右衛門が登場することになります。次回からは工楽松右衛門について何回か、触れていきます。

みなと町高砂・堀川物語#1(霜月)

みなと町(まち)高砂として、今の高砂が形成されたのは江戸時代初期です。それまでも加古川の氾濫や恵みと付き合いながら、加古川、洗川、高砂川を利用しての交易・漁業や、波穏やかな瀬戸内海の航路と幸を利用した交易、漁業が盛んでありました。慶長5(1600)年に池田輝政が播磨に入り、姫路城を築いた後、慶長17(1612)年播磨の海の守りを固めるために高砂城を築きました。そのことにより、様相が一変しました。中村主殿助正勝が城主となり、大規模な構えの城を形成させ、高砂が城下町に生まれ変わりました。

しかし、その立派な城も元和元(1615)年に出された「一国一城令」により破棄され、あしかけ4年にわたる短い歴史を終えました。その後、寛永3(1626)年に本丸の跡地に元来この地にあった高砂神社が戻されました。令和の時代になっても、高砂城のことについて詳しいこと分かっていません。これほどの城下町を形成した高砂城を誰かが研究して下さって、少しでも分かれば、これまた嬉しいことです。みなと町高砂に歴史の分厚さをつけ加えてくれます。

高砂の古地図(運河は街を周回していた)
工楽家旧宅
松右衛門帆

ルネサンス港町高砂の紹介

「ルネサンスみなと町(まち)高砂」は、日本の遺産~北前船寄港地・船主集落~に認定された高砂・堀川周辺地域の活性化を目的として、2021年4月1日に立ち上がったばかりの団体です。会員は約50名。①南堀川発の観光船交流事業の実施、②小型船の来航を促す「海の駅」の設置、③旧港町を舞台にしたイベンの企画・開催、④旧港町地域の古民家・空き施設の活用検討、⑤「高砂歴史資料館(仮)」の設置、⑥会員同士の親睦を図る事業の実施、⑦その他 行政機関、他団体との連携等、を手掛けていく予定です。なぜ、会を立ち上げたかというと、松右衛門帆や各種工作船を発明し、事業化した工楽松右衛<工楽松右衛門旧家> 門旧家が江戸当時の様式を極力の残しながら、改修され、江戸時代の古民家に多くの食堂や喫茶店ができ、万灯祭、高砂神社祭りなど、点と線が出できつつあります。この機運の中で、高砂町を面として脚光を浴びる街にし、多くの観光客が訪れる活気のある街にしていきたいという住民の熱い願いが結集されて、この会ができました。この流れは、モデルケースとして高砂市全体に及ぶことも視野に入れています。その動きの中で、市や県の補助金は活用しますが、どの活性化した地域をも見ても、持続可能な開発は住民の熱意がないと、一過性に終わってしまうことが証明されています。そこで、上記の取組に併せてこのHPを利用して「堀川物語」を月次で発行し「みなと町高砂」の歴史と文化を皆さんに紹介していきます。藤村清春