みなと町高砂・堀川物語NO.2(2021.12.10)

NO.1で姫路藩主・池田輝政が、慶長17(1612)年播磨の海の守りを固めるために高砂城を築かせたことをお伝えしました。その時に、城を中心に私たちが言っている「堀川」が形成されました。南堀川は旧工楽邸の前の短い堀だけで、その前の船が行き来している、一般に堀川といわれているのは高砂川なんです。そして、旧浜国南側の北堀川、十輪寺前の西堀川、そして、南側は現高砂神社前が海でしたので、それで4方を堀・堀代用の川・海で囲まれました。(写真1;今も残る高砂城の石垣【横積み部分】)

(写真2;現在の高砂川)

(写真3;高砂神社前にあった常夜灯)

80才代の地元の方に聞くと、その方が小さい頃は、西堀川はまだあり、幅は「8畳の間と縁側を合わせたほどの幅」だったとのこと。また、発掘調査で明らかになっていますが、旧工楽邸前に雁木(がんぎ・船着場)があり、今は当時の状態で保存されています。

(写真4;旧工楽邸前の雁木)

姫路藩内において、重要な湊は4つ。室津(むろつ)、飾万津(しかまづ)、家島(いえしま)、高砂です。高砂は年貢米の積み出し等の重要な湊として位置づけられています。瀬戸内海、加古川流域をつなぎ、荷物の集積地であり、播磨第一の港であり、その経済力をもって、高砂に多くの「高砂文化」なるものが花開きました。その一要因に高砂には御番所2ヶ所以外に武士がおらず、自由な気風が根付いたとも言われています。

(写真5;加古川の舟運で運ばれたもの)

ところが大河と海の交差点は、栄える要因でありますが、どの地域でも悩まされた問題があります。高砂においては、加古川が上流から土砂を流しこみ、もともと高砂は川底が浅く、江戸後期には干潟である洲(す)が広がっていました。そのために、沖に大型船を停泊させ、「ひらた船(底の浅い船)」で岸までの運搬をしていました。土砂が堆積すれば、藩からの費用で「川浚(かわさら)え」をしていましたが、やがて干潮時にはひらた船も動かせなくなりました。

高砂は姫路藩以外にも加古川流域の幕府領や諸大名から大阪に送られる年貢を積み下ろしするところでもありました。また、私たちの今の感覚ではピンと来ないかもしれませんが、当時はお遍路さん、金比羅参詣、安芸の宮島参りが盛んで、そのための湊でもありました。

当の高砂城は足かけ4年で元和元(1615)年に「一国一城令」で廃城になりましたが、加古川・高砂川が一大物流拠点としての重要性には変わりありません。高砂川、側の加古川を含めて、どんどん土砂がたまってきました。現在でも加古川で大型浚渫船による土砂の除去を行っています。

高砂湊の修復は、姫路藩では不可能とまで言われていましたが、姫路藩にとっても、地元にとっても、死活問題といってもいいほどのところまで来ていました。高砂出身の工楽松右衛門が開発した工作船や築港の技術に賭けるしかなかったのです。(写真6;現在の高砂町)

そこで初代工楽松右衛門が登場することになります。次回からは工楽松右衛門について何回か、触れていきます。(写真6;現在の高砂町)